中原 ふゆきの写メ日記

2024年05月14日 18時50分
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No.38 文字と言葉
言葉ってなんだろう?
僕の永遠の問いです。
言葉を彫ったり
書いたりしたら「文字」になる。
喉を通せば「声」になる。
体系を与えれば「言語」になる。
人間の言葉には体系があり、
だから動物の言葉とは違うという。
クジラはコミュニケーションを取るかもしれない。
でもそこに体系、言い換えれば、システムはない。
人間の言語にはシステムがある。
音のシステムを音韻といい、
文字のシステムを表記体系という。
それじゃ人間の言葉は、
手で書いたり、
書かれた文字を読んだり、
耳で聞いたり、
口から声にして出すだけのものだろうか?
僕も長いことそう思っていた。
でもそうじゃない。
たとえば手話。
声がなくても、手や顔を動かせばそこに、
記号が、体系が生まれる。
それはやがて言語になる。
手話はもともとろう者(耳の聞こえない人)たちのための言葉。
だけど、手話にはさらに「触手話」というものもあるらしい。
触手話は、盲ろう者(目も見えず耳も聞こえない人)のための言葉といわれる。
お互いに手を差し出し合って、
触れ合うことで、手話の単語を表出する。
目でも見えないから、触ってたしかめる。
人間の言語には体系が、
システムが、ルールがある。
ルールが必要なのは、お互いに安心するため。
でも、だったら、
お互い安心できているのであればルールはいらない。
体系がなくても、言語じゃなくても、
「言葉」は紡ぎ出せる。
言葉は伝えるもの。伝わるもの。
想いを伝えるために使うものであり、
伝えるつもりの想い以外も伝えてしまうもの。
言葉をもっと、大きく捉えたい。感じたい。
想いが伝われば、そこには言葉がある、ということ。
だったら口で喋らなくても、
ひとつも単語を知らなくても、
たとえば手のひらから伝う温度で、
呼吸を映し出す視線や表情で、
生まれたての「言葉」を作れるんじゃない?
僕がセラピストをやっているのは、
その可能性を追求するため、
でも、あったりします。
言葉は人。
僕が言葉になって、
伝えたいものがたくさんあります。
中原ふゆき
コメント一覧
匿名希望 さん
どうしても身近な情報から狭く考えてしまいがちですが、同じく大きく広く考えていきたいと思いました(´ー`*)
匿名希望 さん
柔らかくて詩みたいに読んでいて心地いい。
でも葉っぱに隠されてしまうことなく、一番大切な幹がちゃんと見える…ふゆきさんの心がしっかり伝わってくる気がします。
それは文章だけじゃなくて音楽でも。
言葉って確かに文字や音声だけを指すのだと思ってしまいがちだし、私もふゆきさんの文章に出会わなければずっとそう思っていたかもしれません。
「手話」という言語は、手の動きだけでなく表情や身体の動きも使って伝え合うのだと最近知りました。
手話以外にも所謂「非言語的コミュニケーション」と呼ばれるもの…
ふゆきさんが書かれているように、手のひらを伝う温度や、視線、表情で何かを伝えるのって、人間に本来備わっている原始的なものなんでしょうね。
普段潜んでしまっているそれらの「言葉」で想いを伝えたり感じることができたら、それはすごく幸せで、心が満たされる瞬間ですよね…そしてそのあたたかさはずっと残っている。
言葉って、思えば思うほど奥が深いですね。
匿名希望 さん
匿名希望 さん
ふゆきさんの写メ日記には、ユーモアあり、ジョークあり、キリリとした真面目さあり、少し(少しだよね?)のエロさあり、それはもうココでこんな事言われたらぁ〜、あ“ー、誰でもふゆきさんにおちてしまうでしょーッ!
とまぁ…、殺し文句なる文(言葉)があちこちに散らばっており、あの日の日記も、この日の日記も、「あぁー、またもや、やられたぁ…」と思うと同時に、ちーーーっと悔しいノダ。スポイトの一滴くらい。
もー、もー、もー。(笑) 大好きダョ! (笑)
匿名希望 さん
言葉によって齎されるものは多種多様。
そもそも言葉を『自分に都合のいいよう』に解釈したがるし。
ひとの気持ちも刻々と変わるもの。
感性は瑞々しく生まれてくるもの。
放たれた『言葉とのズレ』はいつか生じてしまう。
『生まれたての言葉』への挑戦。
ふゆきさんの写メ日記、面白いです!
匿名希望 さん
でも、『文字と言葉』をこんな風に捉えてるふゆきさんと、会って話して触れてみたいと思いました(←陳腐、語彙力 泣)